夕方 陽がさしてきた









 

 

  アシスタントが綴る 9月  

 

原発事故の避難指示により、叔父家族と共に さいたま市に移り住んでいた祖母は、昨年98才で亡くなりました。今は、生前 ずっと帰りたいと言っていた南相馬市 小高の 代々
続く墓地に眠っています。
先日お墓参りを兼ねて、母の実家である叔父の家を訪ねました。

帰宅困難地域から解除されて3年が経ちますが、周囲で戻っている方はいません。
車で5分もいかないところは 未だ立ち入り禁止区域で、酷暑の中 ヘルメットの警備員が点在し、バリケードが立ち並んでいます。牛が草を食んでいた牧草地を 黒いフレコン
バックが覆い尽くして、傷んだ家々が 植物に埋もれる光景は、息苦しくなるほど
異様です。

幼い頃から、夏には家族で泊まりに行っていました。
梨農家で 野菜やお米も作っていた小高の家では、裏の竹林で 祖母にタケノコを掘らせてもらったり、採れたての野菜や果物を ひたすら食べていました。
広い家の中は いつもひんやりして、鴨居にかけられていたご先祖様の写真が、小さい
私は ちょっと怖かった。近所の盆踊りの帰りには、蛍をたくさん見ました。
掘りごたつの上には、いつも 美味しい手作りのお漬け物がのっています。
穏やかな思い出しかない景色は、今はもう見ることができません。

突然 避難を強制され、手をかけた日常を奪われ、野生動物や野良となってしまった牛に 室内まで荒らされた小高の家は、叔父叔母が 埼玉から通い、コツコツと修繕を重ねて
きました。
今年の春は 空いた畑に、知人から譲り受けた 廃棄予定のたくさんのバラの苗を 植えて
みたそう。広い畑一面に、バラが咲いています。朝の5時から草取りをしていた叔父が、
嬉しそうに案内してくれました。 まるで、バラ園です。
きちんと整えられた室内には 祖母の祭壇。来客が多くあるそうで、お供物がたくさん
供えられています。写真の祖母が笑っています。

多くの親しい人が、想像もできない思いで去っていった小高。
叔父夫婦は、静かに やれる限りのことをしながら、絶やさず暮らしを紡いでいます。


 2019年 8月21日  記す  山田 ナオコ

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